東日本大震災で行方不明者の捜索やがれきの撤去、給食・給水支援に当たって
いた自衛隊が30日、活動に一定のめどがついたとして、一部の被災地から撤収、
活動を縮小した。今後は東北の陸自部隊を中心に、食事や入浴など生活支援に
重点を置く。寸断された道路の復旧、橋の仮設など自衛隊が被災地で果たした役
割は大きい。支援を受けた被災地からは、感謝の声が上がっている。

<活動は継続>
 災害派遣としては初めて編成された陸海空自衛隊による「災統合任務部隊」(本部
仙台)は7月1日に解散する予定で、活動は節目を迎えた。
 行方不明者の捜索で手付かずの場所が少なくなった上、生活支援でも民間で代替
可能なケースが増えてきたための措置とみられる。
 防衛省は「統合任務部隊は解散するが、ニーズがある被災地では地元の部隊が対
応する」として、規模は縮小しながらも支援は継続する方針だ。
 統合任務部隊によると、自衛隊は震災後、全隊員約23万人弱のほぼ半数に当たる
約10万人を被災地に投入した。ピーク時の3月下旬には1日当たり陸自7万人、海自
1万5200人、空自2万1300人、原子力部隊500人の計10万7000人に上った。
 自衛隊は「10万人態勢」を5月中旬まで維持。次第に縮小し、6月29日時点で4万
3000人態勢となっていた。

<3人が死亡>
 統合任務部隊によると、自衛隊の主な活動実績は表の通り。活動は人命救助、不
明者の捜索、物資輸送、がれき撤去や道路復旧、給食・給水、入浴や医療の支援など
多岐にわたった。
 自衛隊の撤収、活動縮小後、各自治体は被災者支援を民間業者やボランティアに移
行するなどして対応する。行方不明者の捜索は宮城県警など各県警が中心になる。
 これまで、派遣中の隊員3人が体調不良などで死亡した。自衛隊はカウンセラーや
臨床心理士らを派遣するなどして、隊員のストレス軽減を図ってきた。
 自衛隊が30日に撤収した宮城県南三陸町の佐藤仁町長は「自衛隊がいなければ、
ここまで復旧は進まなかった。それだけ存在感が大きかった」と話し、活動に感謝した。

◎「孤立」救った仮設橋/直後開通、通行支える/宮城・南三陸の水尻川

 東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県南三陸町で被災直後から活動していた
自衛隊が30日、撤収した。行方不明者の捜索、がれき撤去のほか、食事配給や入浴
サービスを展開し住民の避難生活を支えた。数多い支援の中でも地元が感謝してやま
ないのは、震災直後に水尻川に架かった仮設橋。孤立した地区を救い、「命をつなぐ橋」
となった。
 南三陸町の志津川地区と南部の戸倉地区を結ぶ国道45号は、津波で水尻川河口の
防潮堤が破壊され、川の南側の土砂は大きくえぐり取られて水尻橋も落ちた。
 水尻川を挟み、志津川地区は南北に分断。南側の林、大久保、黒崎に住む住民が北
側の町中心部に行くには、川沿いの迂回(うかい)ルートを歩くことを強いられた。
 仮設橋は長さ40メートル。宮城県柴田町の陸上自衛隊船岡駐屯地の隊員が設置し
、3月19日には通行できるようになった。
 志津川大久保の会社役員遠藤とし子さん(65)は「橋ができて、とても助かった。水道
もなかなか通じなかったので自衛隊にはとても感謝している」と話した。
 志津川黒崎のホテル観洋ではいまも、約500人が避難生活を送る。水尻川の北側に
ある小中学校や診療所に向かう車は「ガタガタガタ」と音を鳴らしながら、交互通行で仮
設橋を渡る。
 おかみの阿部憲子さん(49)は「橋がないと、10分で着くところが40〜50分かかる。
大げさかもしれませんが、私たちにとっては命をつなぐ橋です」と語る。
 水尻川では対面通行できる新しい橋の建設が進んでおり、早ければ7月中旬に開通
する。
 南三陸町で活動した最後の部隊は、多賀城市の陸上自衛隊第22普通科連隊第3中
隊と熊本市に司令部を置く西部方面隊。町総合体育館前のテントで30日、保育園の子
どもたちが住民の寄せ書きを自衛隊員に手渡した。ホテル観洋に避難する住民など約
300人が感謝の言葉を記した。
 第22普通科連隊の福永智一中隊長は「特別なことではなくやるべき仕事を遂行した。
若い隊員が想像以上に頑張ってくれた。寄せ書きを町で活動した応援部隊にも見せた
い」と喜んだ。(渡辺龍)

◎統合部隊を指揮・君塚東北方面総監に聞く/多様な任務、被災者ニーズに応えた

 自衛隊は東日本大震災で、災害では創設以来初となる陸海空の部隊が一体となった
組織「災統合任務部隊」を編成し、最大10万人超の規模で被災者の救助・救援と被災
地復旧を担った。統合任務部隊の指揮官を務めた君塚栄治東北方面総監(58)は河北
新報社の取材に応じ、3カ月以上にわたった活動を振り返った。(聞き手は一条優太)

 ―被災地を最初に見た印象は。
 「3月12日、宮城県沿岸部をヘリで視察した。木造家屋は土台しか残らず、コンクリー
トの建物まで破壊されていた。自然の猛威に文明が全て否定されたように感じた」
 ―発生から3日後、統合任務部隊の指揮官に任命された。
 「被災地は非常に広く、死者や不明者、避難者の数も膨大。任務も人命救助から被災
者の生活支援まで多岐にわたる。自衛隊が創設されて以来、これほど大規模な活動は
なく、訓練もしたことがなかった」
 「与えられた人員をいかに早く、効率よく使うかが重要だと考え、部隊間で十分に情報
を共有させるように努めた」
 ―どのような心構えで任務に当たったのか。
 「国難の時こそ自衛隊の出番。われわれは最後のとりで。後はないという思いだった。
発生後から1週間の睡眠時間は合わせても8時間ぐらいで、指揮官の重圧を感じる暇も
なかった」
 ―隊員に求めたことは。
 「『全てを被災者のためにささげよう』と言い聞かせた。救助活動はもちろん、食料でも温
かい食べ物は被災者、隊員は冷たい缶詰と、あらゆる状況で実行した。最近は体制が縮
小しつつあったが、被災者のニーズを最後まで掘り起こすよう指示した」
 「津波で家族を失いながら任務をこなす隊員もいた。発生から3カ月以上たち、隊員の
疲労もたまっているが、モチベーションは高い。隊員を誇りに思う」
 ―被災地で自衛隊に対する感謝の声が上がっている。
 「非常にうれしい。声援をもらったり、沿道から手を振ってもらったりすると疲れが吹き
飛び、エネルギーが湧いてくる」
 ―被災者に伝えたいことは。
 「家族を、自宅を、財産を、希望すらも失った人もいると思う。でも、がれきが片付いたり
、閉まっていた店が再開したりと、被災地は少しずつ前に進んでいる。被災者と被災地、
東北には明日がある。被災者が自立できるまで、最後の最後まで支援する」


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